1.適応障害になってしまった
今年、わたしは適応障害 になり、丸二ヶ月のあいだ仕事を休んだ。
当時の診断書
幸いにも回復は比較的早く、いまでは元の職場に復帰している。精神の病としてはかなり軽めに済んだほうだと思う。それでも数年間、同じ職場で働き続けてきたわたしにとって、とつぜん仕事ができない状態になったのはあまりにも衝撃的だった。
この先、本当に元の生活へ戻れるのだろうか。退職になるのではないか。このまま本や映画が観れない身体になってしまったらどうしよう。二ヶ月間の休職は、そうした漠然とした不安に晒される経験だった。まるで砂漠のまんなかにひとりぽつんと投げ出された気分。
そうしたなか、わたしを支えてくれたもののひとつが映画 だった。ただし、療養を始めてすぐ映画を観られたわけじゃない。最初の一、二週間は頭がほとんど働かず、映画を観ることさえままならなかった。やがて心身の調子が戻っていき、慢性的な頭痛が晴れてから、ちょっとずつ映画が観られるようになっていった。
2.映画館という教会
映画館は、わたしにとってリハビリ施設 だった。
映画を見にいくというのは、案外体力のいる行為である。一時間半から二時間、ときには三時間を超えて椅子に座り、映像と音の洪水を受け止め続ける。映画鑑賞とは、眼も、耳も、頭も、身体もすべて、情報を受け止めるアンテナにすることだ。ふだんのわたしたちはそれを何の変哲もなくやってしまうけど、病み上がりの身体にはけっこうきつい。だから、映画を一本最後まで観られるということは、自分自身の回復を確かめるためのひとつの指標にもなった。「これを受け止められるくらい、わたしの心身が回復してきたんだ」、と。
療養中、実家から映画館までは片道一時間半ほどかかった。家から15分歩いてバス停へ行き、一時間バスに乗る。札幌のバス停で降りて、また15分映画館まで歩く。映画を観たらまた一時間半かけて帰る。この往復もわたしにとってはちょっとしたトレーニングのように感じられたし、無事に帰ってこれたときは小さな達成感があった。やった! ちゃんと映画を見てこれたぞ! と、毎回のようにこころの中でガッツポーズをした。
しかしなんであんな映画館に行っていたんだろう。自分自身でも思い返してみても不思議なくらい、あのときは映画に敬虔だった。かつて、映画理論家ベラ・バラージュが映画館は古代の伽藍(教会)にも似ている といっていたけど、それでいえば、わたしの療養期間もまさに映画館=教会に祈りにいっていたのだと思う。
映画館は、家でも職場でもない居場所だ。いろんな性別、年齢、思想信条のひとが同じようにチケットとポップコーンを買って、いっしょに並んでスクリーンを眺める。「わたし 」の固有性が消えて、「わたしたち 」になる匿名の空間。ここではわたしが精神を崩していることも、仕事を休んでいることも誰も問わない。ただ、都会の片隅でチケットを買った、誰でもないひとりになれる。それが、自分自身の存在をやさしく肯定してもらえているようで、とても心地良かったんだ。
シアターキノ(札幌)
3.『急に具合が悪くなる』で元気出た
療養中に観た作品のなかでも、とりわけ大切な一本がある。
濱口竜介監督の『急に具合が悪くなる』 だ。3時間16分に及ぶ大作でありながら、どの瞬間も静謐で、生命のおだやかな肯定と死の影がともに満ちている。そんな一本だ。
『急に具合が悪くなる』ポスター
VIDEO youtu.be
あらすじを紹介しよう。
パリ郊外の高齢者介護施設で施設長を務めるマリー=ルーは、入居者をひとりの人間として尊重する「ユマニチュード」の理念を現場に浸透させようと奮闘していた。しかし、人手不足や現場スタッフからの反発、経営面での強いプレッシャーに直面し、理想と現実のはざまで自身も疲れ果てていた。 そんなある日、彼女は道で自閉スペクトラム症の少年を保護したことをきっかけに、彼の祖父である俳優の清宮吾朗と、日本人の舞台演出家・森崎真理に出会う。舞台の終演後、マリーと真理のふたり二人は意気投合し、セーヌ河畔や夜のパリの街を歩きながら対話を重ねていく。 そのなかで、真理が末期がんを患っていること、そしてお互いに語学や学問に通じていることが明かされる。ふたりは迫りくる死の影を感じながらも、この資本主義社会において生きるとは何かをめぐって、濃密な対話を深めていくことになる。
高齢者の介護と末期がん。このふたつのテーマを一貫して描き続ける本作を観ていると、「死」や「生の多様性」についての思索がひとりでに浮かんでくる。きっと本作を観ている誰もが、生きるとはなんだろうと、いまいちど思い浮かべたのではないだろうか。
本作は生の多様性 を、足の多様性 として、わたしたちの眼前に映像として示してみせる。というのも、この映画はとにかく足にまつわるシーンがとても多いのだ。
窪寺智樹が電車に並行するかのようにドタドタと走るショット。 夜のセーヌ河畔をふたりで語り合いながら歩いていくロング・ショット。 夜の静かな町を、マリーが真理を車椅子で押しながらゆっくりと歩いていくショット。 マリーと真理が布団のうえでお互いの足をマッサージをするショット。 介護施設の入居者たちが芝生のうえで足並みをそろえてみんなで歩くショット。 介護施設の入居者たちが芝生のうえで寝転がり、おしくらまんじゅうのように身を寄せ合いながら、お互いの足をマッサージしあうショット。そのさなかで数多くの足が映される。 いろんな大きさ、いろんなかたち、いろんな色の足。いろんなスピードでいろんな仕草の歩き方。それらが画面にまざまざとスクリーンに提示される。これらの光景は――とりわけ介護施設のマッサージのシーンはどことなく異様でおかしみがあるけれど、同時に、眺めていると根拠のない元気が湧いてくる。
本作は物語だけでも感動的だし、セリフ回しもとても饒舌で濃密だ。けれども、なによりもまず本作を輝かせているのは、 生の多様性を足の多様性として換喩的に語る、その映像の語り口 にほかならないのだ。
歩き方の多様性を映すというのは本作に限った話ではない。 たとえば、初期映画の有名作であるリュミエール兄弟の 『工場の出口』 を思い出してほしい。
『工場の出口』
VIDEO youtu.be
ここでは、ひとびとがただ工場から出てきてばらばらに歩いている光景を映しているだけなのに、なぜか感動的にみえてしまう。ただ「歩く」とひとことにいっても、その姿は千差万別で、驚くほどの違いや彩りがある。それらすべてをくっきりと映すカメラはまるで、すべてのひとびとの生を肯定する祝福のようにすら思えてしまう。映画はファインダーをとおして、ひとつの行動、ひとつの動詞に内在する多様性を発見する。そうした初期の映画にあった驚きと近いものが、『急に具合が悪くなる』にも確かに宿っている。
「近づいてみれば、誰もまともな者はいない」 。清宮吾朗は作中劇でそういっていた。これはまさに、映画のカメラのことそのものじゃないか。ただの足、ただの歩行だと思っていたものも、クローズアップしてみるとひとつひとつ全然違う。映画は現実を思いがけないアングルで切り取り、並べてみせることによって、わたしたちの肉眼が囚われている「まとも」をこっぱみじんに破壊し、新たな現実像をスクリーン上に映しだす。映画は現実の見え方を増やしてしまう。写真機は〈視覚的無意識〉を発見するのだとかつてヴァルター・ベンヤミンがいっていたのも、そういう意味で理解するべきだろう。
4.映画を観る、生き延びる
『急に具合が悪くなる』を見終えて、映画館を出たとき、ほんとうに気分が晴れやかだったのを覚えている。そのときわたしに降り注いでいた音と光の洪水は、すべての生命を等しく讃えていた。この作品は異常/正常の境界をそのまま溶かしてしまうような、暖かな陽光が印象的でもあった。映画館の暗闇のなかで偽の太陽をいっぱいに浴びたわたしは、その足でお気に入りのラーメン屋に駆け込んだあと、アイスコーヒーを買って、帰りのバスに乗り込んだ。本作がすばらしかったのはもちろんのこと、3時間16分の映画を見終えることのできる体力が戻ってきたことも、わたしにとってはこの上なく嬉しかった。
in EZO 本店(札幌)油そば
そのほかにも、休職中に映画をたくさん観たのを憶えている。映画館だけじゃなく、金曜ロードショーでもNHKでも、とにかく片っ端から観た。 『トイストーリー5』『きれっぱしの愛』『アイの歌声を聴かせて』『ちいかわ 人魚の島のひみつ』『数分間のエールを』『気狂いピエロ』……。実家からわたしの家に帰ってからも『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』『ラブライブ!蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ Bloom Garden Party』『THE RIBBON HERO』『ミニオンズ&モンスターズ』『オークストリートの異変』など次々に観まくった。 復職した今も個人的な映画ブームは止まらない。まるで2021年ごろ、コロナ禍の真っ最中に映画を観まくってたときの原体験が戻ってきたみたいだ。
「映画に生かされた 」、というと大げさに思われる方は多いかもしれない。実際、わたしはシネフィル(映画狂)というほどたくさん観ているわけでもない。映画をいくら観たところでがんや風邪が治るわけでもない。けれども、行き場のない若者をその場に留めさせてくれて、さらには生き方の多様性を映像として示してくれるくらいの度量は、映画にはある。そのことを知れたおかげで、適応障害の思い出もどちらかといえば嬉しかったものとして記憶に焼きついている。
きっとわたしたちはいつかまた道に迷うことになるだろう。生きていれば、当たり前だと思っていた足元が崩れて、宙づりの状態になってしまうときが必ずくる。そのときはまた、映画をたくさん観ればいいんだ。安心するといい、映画は宙づりの状態を歓迎する芸術だ。また暗闇のなかで目を見開いて、あてがいぶちの現実があられもなく打ち壊されるのを、匿名のひとりとしてただゆっくりと眺めているといい。そうすればやがて元気になるから。