カヤマのブログ

カヤマ(鹿山)のポートフォリオ【随時更新】

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ひとこと自己紹介

はじめまして! カヤマ(鹿山)a.k.a. KYMH ØXYGEN DESTR0YER と申します。「カヤマ」と気軽に呼んでもらえるとうれしいです。

北海道で文章書いたり、絵を描いたり、ラップしたりしています。ポピュラー音楽、アニメ、映画、本に関心への関心が強め。とくに近年は芸術・文化の批評について考えていることが多いかも。芸術系の通信制大学に在籍中(4年目)。

趣味趣向

音楽:ヘヴィメタル、プログレッシヴ・ロック、ヴィジュアル系、ハードコア・パンク、日本語ラップをよく聴きます。とくにヘヴィメタル、ヴィジュアル系に詳しいとされている(?)らしく、書きものをお願いされることがこれまで何度かありました。その他のジャンルもちょこちょこ聴くけど語れるほどではないレベル。一番好きなアーティストはTHA BLUE HERB。

アニメ:萌えが好き。まんがタイムきらら系、アイドルアニメ、ガールズバンドアニメをよく見てます。好きなアニメ制作会社はトリガー。好きなアニメ監督は細田守。オールタイムベストアニメは『鋼の錬金術師(旧版)』『カードキャプターさくら』。

映画:好きな監督はアンドレイ・タルコフスキー、エドワード・ヤン、タル・ベーラ、スティーブン・スピルバーグ、マーティン・スコセッシなど。オールタイムベストはフランス・キャプラ監督『素晴らしき哉、人生!』、次点でマーティン・スコセッシ『タクシードライバー』。

:芸術・文化全般の批評に関心があります。とくに、芸術作品のかたちやフォルムがどんなふうに観客の感覚に作用するか、ということを考えがち。オールタイムベストはモーリス・ブランショ『文学空間』。次点で宮川淳『鏡・空間・イマージュ』、平倉圭『かたちは思考する:芸術制作の分析』。

その他:好きな飲みものはエスプレッソ。好きな食べものはいちご、つけめん、カレー。ヨウジヤマモト系列ブランドの服をよく着ている。

 

カヤマ・作品選(とくにみせたいもの)

文章・ポッドキャスト

『はじめての百合スタディーズ』の書評記事。シスヘテロ男性として百合作品をまなざすとはいかなることかを自問しながら書きました。とりわけ広く読まれ、いろんな反応があって嬉しかった作品です。

 

シンガーソングライターTiroruへのインタビュー記事。通信制大学の実習として執筆した作品です。Tiroruの曲も詩もすばらしいだけに、それに文章で迫っていくのはとても困難だった。やっぱ批評って作品との格闘なんだなぁと思わされた一作。

 

『ぼっち・ざ・ろっく!』の二次創作小説。荒削りですが当時やりたかったことをすべて詰めこみまくってるので、とても気に入っています。良くも悪くも、この一度しか書けない作品。

 

ヴィジュアル系バンドAzavanaの紹介文です。文章でヴィジュアル系を表現するとはいかなることかを考えた結果、とてもキザな文体になった。

 

Bring Me The Horizon『Amo』のレビューを寄稿しました。また、座談会企画にも参加しています。わたしが音楽批評を真剣に書いてみたいと思うようになったキッカケであり、人生のひとつの転機です。編集長の李氏さんにはとても感謝しつくせない。

 

ラウドパーク2025の開催に併せて、現代のメタルミュージックについて語りました。ホストのお二人はいつも喋ってる友人なので、気楽に喋れていると思います。

 

このブログでは毎年ご恒例の年間ベスト企画。楽しみにしてくださっている方がちらほら居て嬉しい限りです。筆者としてもこれをやらなくては年は越せない!

 

イラスト制作

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ラップ

北海道流のジャージークラブ。疾走感のあるトラックに、押韻重視のリズミカルなフローを乗せました。楽曲としてのクオリティがいちばん高いのはこれだと思う。船越くんによるビートもとても良き。

 

トリッキーなビートのうえで歌う変則ブーンバップ。北海道帯広市に居たときの記憶を、ひとつの円環として凝縮しました。詩としてはいちばん気に入ってる作品です。

 

わたしのデビュー作です。荒削りながらすでにスタイルがけっこう出来上がっていますね。

 

Discordサーバー運営

Discordサーバー『スイカバー』運営中。みんなでのびのびと書けるクローズドなTwitterみたいな場所です。

 

各種SNS

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映画療養日記――適応障害になったころ、『急に具合が悪くなる』に救われた話

1.適応障害になってしまった

 今年、わたしは適応障害になり、丸二ヶ月のあいだ仕事を休んだ。

当時の診断書

 幸いにも回復は比較的早く、いまでは元の職場に復帰している。精神の病としてはかなり軽めに済んだほうだと思う。それでも数年間、同じ職場で働き続けてきたわたしにとって、とつぜん仕事ができない状態になったのはあまりにも衝撃的だった。

 この先、本当に元の生活へ戻れるのだろうか。退職になるのではないか。このまま本や映画が観れない身体になってしまったらどうしよう。二ヶ月間の休職は、そうした漠然とした不安に晒される経験だった。まるで砂漠のまんなかにひとりぽつんと投げ出された気分。

 そうしたなか、わたしを支えてくれたもののひとつが映画だった。ただし、療養を始めてすぐ映画を観られたわけじゃない。最初の一、二週間は頭がほとんど働かず、映画を観ることさえままならなかった。やがて心身の調子が戻っていき、慢性的な頭痛が晴れてから、ちょっとずつ映画が観られるようになっていった。

 

2.映画館という教会

 映画館は、わたしにとってリハビリ施設だった。

 映画を見にいくというのは、案外体力のいる行為である。一時間半から二時間、ときには三時間を超えて椅子に座り、映像と音の洪水を受け止め続ける。映画鑑賞とは、眼も、耳も、頭も、身体もすべて、情報を受け止めるアンテナにすることだ。ふだんのわたしたちはそれを何の変哲もなくやってしまうけど、病み上がりの身体にはけっこうきつい。だから、映画を一本最後まで観られるということは、自分自身の回復を確かめるためのひとつの指標にもなった。「これを受け止められるくらい、わたしの心身が回復してきたんだ」、と。

 療養中、実家から映画館までは片道一時間半ほどかかった。家から15分歩いてバス停へ行き、一時間バスに乗る。札幌のバス停で降りて、また15分映画館まで歩く。映画を観たらまた一時間半かけて帰る。この往復もわたしにとってはちょっとしたトレーニングのように感じられたし、無事に帰ってこれたときは小さな達成感があった。やった! ちゃんと映画を見てこれたぞ! と、毎回のようにこころの中でガッツポーズをした。

 しかしなんであんな映画館に行っていたんだろう。自分自身でも思い返してみても不思議なくらい、あのときは映画に敬虔だった。かつて、映画理論家ベラ・バラージュが映画館は古代の伽藍(教会)にも似ているといっていたけど、それでいえば、わたしの療養期間もまさに映画館=教会に祈りにいっていたのだと思う。

 映画館は、家でも職場でもない居場所だ。いろんな性別、年齢、思想信条のひとが同じようにチケットとポップコーンを買って、いっしょに並んでスクリーンを眺める。「わたし」の固有性が消えて、「わたしたち」になる匿名の空間。ここではわたしが精神を崩していることも、仕事を休んでいることも誰も問わない。ただ、都会の片隅でチケットを買った、誰でもないひとりになれる。それが、自分自身の存在をやさしく肯定してもらえているようで、とても心地良かったんだ。

シアターキノ(札幌)

 

3.『急に具合が悪くなる』で元気出た

 療養中に観た作品のなかでも、とりわけ大切な一本がある。

 濱口竜介監督の『急に具合が悪くなる』だ。3時間16分に及ぶ大作でありながら、どの瞬間も静謐で、生命のおだやかな肯定と死の影がともに満ちている。そんな一本だ。

『急に具合が悪くなる』ポスター

youtu.be

 あらすじを紹介しよう。

 パリ郊外の高齢者介護施設で施設長を務めるマリー=ルーは、入居者をひとりの人間として尊重する「ユマニチュード」の理念を現場に浸透させようと奮闘していた。しかし、人手不足や現場スタッフからの反発、経営面での強いプレッシャーに直面し、理想と現実のはざまで自身も疲れ果てていた。
 そんなある日、彼女は道で自閉スペクトラム症の少年を保護したことをきっかけに、彼の祖父である俳優の清宮吾朗と、日本人の舞台演出家・森崎真理に出会う。舞台の終演後、マリーと真理のふたり二人は意気投合し、セーヌ河畔や夜のパリの街を歩きながら対話を重ねていく。
 そのなかで、真理が末期がんを患っていること、そしてお互いに語学や学問に通じていることが明かされる。ふたりは迫りくる死の影を感じながらも、この資本主義社会において生きるとは何かをめぐって、濃密な対話を深めていくことになる。

 高齢者の介護と末期がん。このふたつのテーマを一貫して描き続ける本作を観ていると、「死」や「生の多様性」についての思索がひとりでに浮かんでくる。きっと本作を観ている誰もが、生きるとはなんだろうと、いまいちど思い浮かべたのではないだろうか。

 本作は生の多様性を、足の多様性として、わたしたちの眼前に映像として示してみせる。というのも、この映画はとにかく足にまつわるシーンがとても多いのだ。

 窪寺智樹が電車に並行するかのようにドタドタと走るショット。
 夜のセーヌ河畔をふたりで語り合いながら歩いていくロング・ショット。
 夜の静かな町を、マリーが真理を車椅子で押しながらゆっくりと歩いていくショット。
 マリーと真理が布団のうえでお互いの足をマッサージをするショット。
 介護施設の入居者たちが芝生のうえで足並みをそろえてみんなで歩くショット。
 介護施設の入居者たちが芝生のうえで寝転がり、おしくらまんじゅうのように身を寄せ合いながら、お互いの足をマッサージしあうショット。そのさなかで数多くの足が映される。
 いろんな大きさ、いろんなかたち、いろんな色の足。いろんなスピードでいろんな仕草の歩き方。それらが画面にまざまざとスクリーンに提示される。これらの光景は――とりわけ介護施設のマッサージのシーンはどことなく異様でおかしみがあるけれど、同時に、眺めていると根拠のない元気が湧いてくる。

 本作は物語だけでも感動的だし、セリフ回しもとても饒舌で濃密だ。けれども、なによりもまず本作を輝かせているのは、生の多様性を足の多様性として換喩的に語る、その映像の語り口にほかならないのだ。

 歩き方の多様性を映すというのは本作に限った話ではない。
 たとえば、初期映画の有名作であるリュミエール兄弟の『工場の出口』を思い出してほしい。

『工場の出口』

youtu.be

ここでは、ひとびとがただ工場から出てきてばらばらに歩いている光景を映しているだけなのに、なぜか感動的にみえてしまう。ただ「歩く」とひとことにいっても、その姿は千差万別で、驚くほどの違いや彩りがある。それらすべてをくっきりと映すカメラはまるで、すべてのひとびとの生を肯定する祝福のようにすら思えてしまう。映画はファインダーをとおして、ひとつの行動、ひとつの動詞に内在する多様性を発見する。そうした初期の映画にあった驚きと近いものが、『急に具合が悪くなる』にも確かに宿っている。

 「近づいてみれば、誰もまともな者はいない」。清宮吾朗は作中劇でそういっていた。これはまさに、映画のカメラのことそのものじゃないか。ただの足、ただの歩行だと思っていたものも、クローズアップしてみるとひとつひとつ全然違う。映画は現実を思いがけないアングルで切り取り、並べてみせることによって、わたしたちの肉眼が囚われている「まとも」をこっぱみじんに破壊し、新たな現実像をスクリーン上に映しだす。映画は現実の見え方を増やしてしまう。写真機は〈視覚的無意識〉を発見するのだとかつてヴァルター・ベンヤミンがいっていたのも、そういう意味で理解するべきだろう。

 

4.映画を観る、生き延びる

 『急に具合が悪くなる』を見終えて、映画館を出たとき、ほんとうに気分が晴れやかだったのを覚えている。そのときわたしに降り注いでいた音と光の洪水は、すべての生命を等しく讃えていた。この作品は異常/正常の境界をそのまま溶かしてしまうような、暖かな陽光が印象的でもあった。映画館の暗闇のなかで偽の太陽をいっぱいに浴びたわたしは、その足でお気に入りのラーメン屋に駆け込んだあと、アイスコーヒーを買って、帰りのバスに乗り込んだ。本作がすばらしかったのはもちろんのこと、3時間16分の映画を見終えることのできる体力が戻ってきたことも、わたしにとってはこの上なく嬉しかった。

in EZO 本店(札幌)油そば

 そのほかにも、休職中に映画をたくさん観たのを憶えている。映画館だけじゃなく、金曜ロードショーでもNHKでも、とにかく片っ端から観た。
 『トイストーリー5』『きれっぱしの愛』『アイの歌声を聴かせて』『ちいかわ 人魚の島のひみつ』『数分間のエールを』『気狂いピエロ』……。実家からわたしの家に帰ってからも『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』『ラブライブ!蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ Bloom Garden Party』『THE RIBBON HERO』『ミニオンズ&モンスターズ』『オークストリートの異変』など次々に観まくった。
 復職した今も個人的な映画ブームは止まらない。まるで2021年ごろ、コロナ禍の真っ最中に映画を観まくってたときの原体験が戻ってきたみたいだ。

 「映画に生かされた」、というと大げさに思われる方は多いかもしれない。実際、わたしはシネフィル(映画狂)というほどたくさん観ているわけでもない。映画をいくら観たところでがんや風邪が治るわけでもない。けれども、行き場のない若者をその場に留めさせてくれて、さらには生き方の多様性を映像として示してくれるくらいの度量は、映画にはある。そのことを知れたおかげで、適応障害の思い出もどちらかといえば嬉しかったものとして記憶に焼きついている。

 きっとわたしたちはいつかまた道に迷うことになるだろう。生きていれば、当たり前だと思っていた足元が崩れて、宙づりの状態になってしまうときが必ずくる。そのときはまた、映画をたくさん観ればいいんだ。安心するといい、映画は宙づりの状態を歓迎する芸術だ。また暗闇のなかで目を見開いて、あてがいぶちの現実があられもなく打ち壊されるのを、匿名のひとりとしてただゆっくりと眺めているといい。そうすればやがて元気になるから。

たかが「白いアメリカ」が朽ちようとも――リドリー・スコット『ラスト・サバイバー』(2026)感想

リドリー・スコット監督の最新作『ラスト・サバイバー』(原題:The Dog Stars)(2026)を観た。

『ラスト・サバイバー』

どうやら海外では批評家からの評価が芳しくないようだし、興行収入も伸び悩んでいるらしい。本邦でも、同日に公開された『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 〈ワルプルギスの廻天〉』が話題を独占しており、陰に隠れてしまった印象がある。
そうした状況もあり、本作のチケットを買ったときは大した期待していなかった。だけど、実際観てみると、率直にいってほんとうにすばらしい傑作だと思った。2026年の今こそ撮られるべき作品だと思う。よくぞ、ポストコロナ・ポストトランプ時代のリアリティをここまで濃密に描いてくれた。

物語のあらすじとしては、いわゆるポストアポカリプス/地球崩壊ものだ。舞台は近未来のアメリカ。ウイルスによって人類の9割が滅びてしまい、世界は限界状態を迎えている。都会はほとんど無人。地方部も人がまばらで、暴力と略奪が横行している。まるで『マッドマックス』や『北斗の拳』を思い出させる、そんな殺伐としたアメリカを舞台にした作品だ(どうやら撮影はイタリアで行われたようだが)。
この手のポストアポカリプス/地球崩壊ものは、これまでも幾度となく映画・小説・ドラマのモチーフとなってきた。だから、このジャンルの中では確かに目新しさはないのかもしれない。なるほど、確かに表面だけを見れば、どこかで既視感のある世界観だ。だが、本作の真の魅力は、そのジャンルのセオリーを用いて、現代のアメリカを寓話的に描いている点にある。これはポストアポカリプスの皮を被った、西部劇&ロードムービーにほかならない。

まず、映像の風景美がすばらしい。この手の作品は、たいてい都市部の廃墟を中心に描くことが多いと思う。だがこの作品が中心に映すのは、アメリカ地方部の風景だ。大きな山、川、牧場などの雄大な自然。人間が滅びているにもかかわらず、自然は変わりなく美しい。まるで人類滅亡の事実をどこか笑い飛ばすかのように。
一面に拡がる緑、川の景色、燃え盛る炎、空を見上げれば満天の星。そうした自然の雄大なエネルギーを讃える視線は、タルコフスキー監督(ロシア)のそれを彷彿とさせる。そう、アメリカ地方部の風景を、さながらヨーロッパ映画かのように撮るのだ。そのギャップがおもしろい(前述のとおり、撮影ロケが挙行されたのがイタリアというのもこの作風に起因しているだろう)。

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動物がしばしば登場するのも印象的。都市部にも田舎にも、犬、カラス、ロバ、牛などが暮らしている。人間ごときが滅びても、地球の生態系はそれほど強靭なのだ。その光景はある種、楽観的にも見えてくる。

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対照的に、音楽や物語上のモチーフ群はきわめてアメリカ的だ。
この映画は作中において、やたらひっきりなしに劇伴が流れている。その流れる音楽のほとんどはフォークミュージックのアコースティックギターの音色。この音色は、20世紀アメリカのノスタルジーを呼び起こさずにはおかない。

映像のモチーフ面では、アメリカの西部劇〜戦争映画〜ゾンビ映画のアイディアがふんだんに導入される。さながらジョン・フォード『駅馬車』めいた銃と馬の銃撃戦。暗い夜に次々と襲いかかってくる匿名の蛮族。錆びついた都市部に佇むマクドナルド、バスケットボールの電光掲示板、缶詰のスプライト。物語冒頭にはコカ・コーラを飲むシーンもちらりと映る。物語後半、80年代風の空港をショッピングモール的ユートピア/ディストピアとして描くシーンは、ジョージ・A・ロメロ『ゾンビ』を彷彿させる。

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こんなふうに、本作で描かれている内容はとてもアメリカ的なのに、風景の撮り方だけがタルコフスキー的で、ノスタルジックな静謐さを帯びている。アメリカを主題にした作品でありながら、そのアメリカをただ礼賛するのではなく、称えつつもどこか距離を持って接している。そのバランス感覚が気品になっている作品だ。

この映画が批評家から不評な理由のひとつはおそらく、黄色人種も黒人もいない、白人しかいない世界だという点だろう。だがそれもそのはずだ。先ほど述べたとおり、この映画はアメリカ地方部を描いた作品である。とりわけ、没落していく白人貧困層(ホワイトトラッシュ)とリバタリアニズム(自由主義)を寓話的に描いている。カウボーイハットをかぶったキャラクターや、アメリカ国旗のデザインのキャップをかぶったキャラクターが現れたのはその証左だろう。

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21世紀、ついに白人の国だったアメリカが跡形もなく滅びていく。貧困と疫病により、「白いアメリカ」はゆるやかに衰退していく。コロナウイルスと第二次トランプ政権を経たアメリカ地方部の風景は、さながらSF世界のなかのできごとなのだ。リドリー・スコット監督はその現状をノスタルジックに、そして楽観的に描く。これをリドリー・スコット監督が撮ったということが、とても感動的だ。

リドリー・スコット監督はこれまで、中世ヨーロッパ、古代ローマ、SF化された東洋(『ブレードランナー』)など、実にさまざまな世界をフィルムに収めてきた。かつて『テルマ&ルイーズ』では女性に抑圧的・差別的なアメリカ郊外の風景を批判的に撮りもした。そんな彼が満を持して、アメリカ地方部が滅びゆく様を撮っている。
あらゆる視点からこの世界を見てきた老齢の監督が、最後にアメリカで白人の貧困層として生きることについて撮ったのだ。20世紀のような華やかさはもう味わえない。それでもひとは、ボロボロのアメリカ大陸で手を取り合い、素朴な幸福を享受する。滅んだあとにも、生活はある。リドリー・スコット監督がたどり着いたその潔さに、彼なりのレクイエムに、感慨を覚えずにはいられない。

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本作を観たあと、ふと思い出した作品がいくつかある。まずは、『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』。人類の大半が死滅したあと、地方部の伝統的なくらしが自生的に育っていく光景は、まるで第三村の光景を思い起こさせる。つぎに、『レヴェナント: 蘇えりし者』。アメリカ映画でありながら、火・水・草木のエネルギーを讃えるようなその視座には、タルコフスキーからの影響を感じさせる。アメリカ地方部の大自然を横断する自由主義の映画として、『ノマドランド』の存在も思い浮かぶ。そしてなにより、白いアメリカの終焉を喜ばしいできごととして描いた『グラン・トリノ』の記憶が蘇る。これらの作品に何かしらの引っかかりを感じた方は、ぜひとも『ラスト・サバイバー』も鑑賞してほしい。

 

(記事内の画像は予告編より引用)