近藤銀河・水上文・中村香住『はじめての百合スタディーズ クィア/フェミニストの視点から』(太田出版、2026)を読んだ。本邦初の百合文化批評単行本だ。ネットではいろいろ賛否両論が飛び交っているけど、一読者としては楽しめたし、いろいろ考えさせられるところがあった。わたしは百合に何を求めていたのか、ということも振り返る良い機会になったよ。
- 1. ざっくり内容紹介
- 2. はじめてとは何か?――当事者性という緊張感の必然性
- 3. 同人っぽさと、値段の話
- 4.百合アニメ作品論について
- 5. 非当事者からみた反省
- 6. 百合鑑賞、二重の透明化?
- 7. 男性学・メンズリブとセットで語ること、男性の実存の器
- 8. 終わりに——美少女を食い破る脱構築
1. ざっくり内容紹介
概要は下記の書評ブログに詳しくまとまっているから、割愛する(すごい良い記事)。
百合文化を正面から批評した単行本としては、これがほぼ一冊目らしい。昔ユリイカで百合特集はあったみたいだけど、商業誌の特集としてはともかく、ガチの単行本としてはこれが最初。それはすごくいいことだと思う。
百合って、好きな人が多いぶん、うるさい人も多いジャンルで。だからこの本も発売前後でけっこう賛否両論あったらしいし、Amazonや読書メーターでも批判的な書き込みは少なくない。正直、自分も一読者として読んでてチクッとするというか、ちょっと強めに言われて悲しいな、と思うところはあった。けど同時に、百合批評の一発目はこのかたちじゃないとありえないとも思った。
2. はじめてとは何か?――当事者性という緊張感の必然性
いまの百合文化って、わたしのような男性オタクが楽しむ大きなジャンルになっている一方で、当事者による切実な自己表現・社会的表現にもなっている。こうなったいきさつには、どうやら百合文化がいろんな文脈から混然一体となって成長してきたっていう流れがあるらしい。
百合という器には、自分自身のセクシュアリティを扱った切実な表現と、非当事者による作品とが渾然一体になっている。むろん、非当事者の作品には、性的消費を目的としたポルノ作品も含まれる。それらを渾然一体にできてしまう懐の深さこそが「百合」の強みともいえる。けど、今回は百合を語るうえで今一度、当事者性を強調しようというわけだね。このジャンルは男性がポルノ的に楽しむためだけのものではありません、と。女性を政治や実社会から切り離してファンタジックに描くものではけっしてなく、むしろそこには確かなリアルが刻まれているのだ、と。これによって、百合の作者・読者にある種の緊張感を導入する。
わたしはそれは、いいことだと思う(その指摘に読んでて傷つきもしたけど)。というより、この本が最初なのは必然だったと思うんだよね。
だって、もし一作目が「百合に詳しい漫画オタクが大勢集まって、アカデミックな文化ツールを用いて論考を書きまくる本」だったら、それはそれでゲンナリするでしょ。○○大学メディア学部やら文学部やらの偉い人たちが、論文調で「漫画家の○○の表象が云々」と大上段から語っていたら、すごくうんざりしてたと思う。
実際、わたしは何も考えてないに等しい男性オタクだから、耳が痛いところは多かった。でも、自分と近い世代の著者が、自分の当事者性を賭けてやってることはすごいと思うし、いろんな意味で、最初の一冊がこの形だったことには、ちゃんと意味があったんだな、と思う。
3. 同人っぽさと、値段の話
ところで、本書は全体的に手作り感があって同人っぽい。いわく、そもそも百合漫画じたい、ジャンルを背負った商業誌が『コミック百合姫』くらいしかなくて、わりとインディペンデントな文化らしい。本書のスタンスもそれと重なる。ライター3人がざっくばらんに話す座談会があって、そのあいだに論考が二編挟み込まれるっていう構成も含めて、文フリの同人誌っぽい。座談会の雰囲気は、ファミレスの隣の席で熱く語っているオタクの喋りを、盗み聞きしているような感覚だしね。
でもね、そうした当事者性・インディペンデント性が顕著な本書が、3,080円の人文書として売られているのは、正直ちょっと高かったなあという想いはある。別に損したとかじゃないよ。スタンスがそれぞれ食い違ってる、という話。逆に安くしすぎるのも、「ただのサブカル本です」って百合文化を軽く扱ってることになるから考えものだ。本の適正価格って難しいな。
4.百合アニメ作品論について
とはいえ全体としては、とても楽しく読んだ。わたしは百合文化に知識として詳しいわけじゃないから、歴史観・年表のあたりは素直に勉強になると思いながら読んでた。好事家からは一家言あるらしいけど、この手のサブカル本は必ずそういう賛否両論は少なからずあるものだしさ。
この本が扱う百合は広義のもの。『コミック百合姫』作品や、その他日本の漫画作品、日本・海外ドラマなど、女性同士の人間関係を描くことを主軸にしたフィクションは幅広く扱う。それに加えて、『けいおん!』などの日常系・きらら系、『ラブライブ!』などのアイドルアニメなども射程に入ってる。とくにわたしはそうした日常系・きらら系・アイドルアニメなどにどっぷりの人間だから、これらについて論評するパートがいちばんおもしろかった。というのも、わたしの作品評価と3人の作品評価に被るところがけっこうあったんだよね。
『機動戦士ガンダム 水星の魔女』第一期はウテナをオマージュしたジェンダー観のチャレンジがすごく面白かった。なのに、二期からの失速がちょっと悲しかったよね、とか。『BanG Dream! Ave Mujica』の人物描写への批判も同意。本作の楽曲や3DCGはすごく好きなんだけどね。あと、『リコリス・リコイル』の描写がいろいろダメでしょっていうのも完全に同意(笑) わたしも当時、filmarksでブチギレた投稿したこと覚えてるよ。ただ、本作に関しては千束の台詞回しや演技はすごく魅力的だと思ってる。『プリパラ』『前橋ウィッチーズ』の評価が高いのも同意。いずれも倫理的なチャレンジがある作品だしね。そして『少女革命ウテナ』をはじめとする幾原邦彦作品は3人とも傑作と認めていて、ある種の評価基準になっている。

百合漫画・ドラマはわたしの門外漢だからともかく、百合アニメ論評の様子をみて、わたしは本作の評価基準が突拍子のないものだとは思わない。萌え・少女表象を肯定しつつ、しかしセクハラ的になっておらず、多様な生き方へのまなざしがしっかり内在している作品を選んだら、おのずとこうなると思う。シスヘテロ男性のわたしも、まるきりすべて同意はしないとはいえ、個々の作品評とその理由は感覚的にわかるんだよね。
(もっといえば、この批評の演算式を明確に示せれば、よりエポックメイキングだったのではと思ってしまう)
でも、その倫理的に正しく断罪していくばかりではないのが本書のおもしろいところだった。たとえば、『VALKYRIE DRIVE -MERMAID-』は、ポルノ的ではあれ女性同士の性愛を描いているとして、評者は両義的な態度を示す。
水上:二〇一五年の『 VALKYRIE DRIVE -MERMAID- 』は、そういうアダルト OVA的な流れを継ぐアニメだったともいえるかもしれない。あれは地上波でやる話じゃないよね(笑)
中村:『 VALKYRIE DRIVE -MERMAID-』は周りのレズビアンの子が結構ハマってた感じがある。
水上:九〇年代男性向け女性同性愛作品とかパルプ作品の方が「百合」よりむしろ好き、みたいな人もいると思うんだけど、そういう方向の作品だよね。

時として、男性向けポルノとして制作された作品が、不可視化されたレズビアンを露出させる革命的表象になる。この反転がすごくおもしろい。一読者の興味としても、男性向けポルノとマイノリティの問題はもっと深く読んでみたかったな。ここにこそ思想のアクロバットもあると思うから。
やや話は逸れるけど、それでいえば、『魔法少女にあこがれて』は3人の目からはどう映るんだろう。この作品はいろいろ危ういんだけど、だからこそすごく好きなんだよね。主人公はひょんなことから魔法少女の敵役に抜擢されて、魔法少女たちに歪んだ愛情のこもった”おしおき”をしていく……という、ほんとうに邪な感情にのみ駆動された作品なんだけど(笑) でも、ただ「エロいね」の感想ひとことだけじゃ済まされない、なんかすごいことが起きている気がする。すべての性描写がコメディとして明るく、いっさいの後ろめたさなく描かれてるところは観てて気持ちがいいしね。

女性から女性への加害的なプレイを描くという点では、『きたない君がいちばんかわいい』も思い出すけど、あれもいまだにどう読んでいいかわからない。全部読んだうえで「これは大丈夫なのか?」とモヤついてしまったけど、でもただ反倫理的だとかんたんに一刀両断してしまえるような作品でもないと思うから。

5. 非当事者からみた反省
さっきもいったとおり、この本はレズビアンやクィアの当事者性を押し出すことによって、百合読者にある種の緊張感を導入する本になってる。わたし自身、百合を「女の子かわいいなガハハ」「かわいい女の子同士の恋愛最高だなガハハ」って頭空っぽで楽しんでた消費者だから、本作の批判が真っ向から突き刺さったし、その点は反省したしね。
自分は何も考えてなかったんだ、って突きつけられることはけっこう苦しい体験でもある。だから、この本に怒ってる人の気持ちもわかる。
ということで、わたしは本書が一作目だったことにすごく必然性を感じてる。だからこそ、逆に「非当事者が語るって何だろう」って問いが逆照射される。
6. 百合鑑賞、二重の透明化?
ここからはわたし個人の話をする。誰かの総意や代弁ではないことをあらかじめ断っておこう。
わたしも百合漫画や日常系をポルノ的に読んでるところはある。「かわいい女の子が並んでて嬉しいな」「エロいキャラが二人いて嬉しいな」とか、普通に思うよ。だから「女性を性的客体化してる」という批判はまさに刺さるし、自分はそんなことしてませんとは絶対言わない。
だけど、それと同時に、女性キャラクターをただ性的客体として消費しているだけじゃないんだ。もちろん片方ではそう。もう片方では、たぶん自分自身が男性であることを忘れるためじゃないかと思うことがある。本の中で「百合ファンの男性は男性嫌悪が強い」みたいな話が出てたけど、それとすごく繋がる話題だね。また、水上氏の発言とも重なる。
BLは読んでいる人も書いている人も基本的に女性であるという前提が当時は今よりも強かった。だから私にとっても、 BLで描かれるキャラクターはある種の「女性」に見えていたというか。
(水上氏の発言)
このひとことは、本書の論旨とは直接関わらないこぼれ話みたいな項目だ。でも、わたしにはめちゃくちゃ刺さってるし、もっと掘り下げたい部分もある。
当事者視点から語った著者3人へのアンサーとして、わたしもちょっとだけ自分語りをしよう。わたしは中学2年生のときに自分の男性性がうち砕かれる出来事を体験した。女性からのいじめやからかいだね。それじたいは半年も続かず終わったけれども、ある種の「自分は存在として劣っている」という劣等感は刻み込まれて、それをだいぶ引きずった。幸い、いろんな運の良さがあり、徐々に回復していったんだけど。
そのときの経験を踏まえていえば、日常系・きらら系・百合アニメはわたしにとって人生の鎮痛剤だったんだ。『きんいろモザイク』『ご注文はうさぎですか?』を観ていれば、自分自身が男性であることをつかの間であれ忘却できた。非-男性のユートピア。もちろん中学〜高校のころなんてそこまで複雑なこと考えていなかったけど、でも今思うと、どこかにそういう切実さはあったように思うんだ。男性社会から逃れるシェルターとしての、百合文化。

でもこれって、ハッキリいってグロテスクだよね。自分自身がホモソーシャルの敗者、従属的な男性性(レイウィン・コンネルの概念)の持ち主であることを透明化するために、女性を透明化する。そこには二重の透明化、他者否定を経由した自己否定がある。
他者の具体性の消去が、鏡映しになって、自分自身の具体性を消去する。そうしていなきゃやってられない。わたしの立場からすると、そうしたひとたちの惨めだが切実な生を、けっして無視できないんだよ。
もういちど再確認するけど、わたしは『はじめての百合スタディーズ』を楽しく読んだし、クィア/レズビアン/パンセクシャル等の当事者が現在の百合文化受容に怒る権利も当然あると思う。この本に込められた怒りはすごく正当だよ。百合批評のスタート地点はここにある。でも、次の一手は非当事者の話もぜったい必要になる。マイノリティを透明化するのは問題で、それが有害なドラッグだとしても、そのドラッグに浸かっていないとやっていけない生がある。
わたし自身、一歩間違えば女性嫌悪に陥っていた可能性は全然あるような育ちだし、彼らのような読者に仲間意識や同情心がある。それは愚かで不勉強でキモい読者かもしれないけど、愚かで不勉強でキモい読者にも実存はぜったいあるからね。
7. 男性学・メンズリブとセットで語ること、男性の実存の器
百合の話に戻そうか。もし仮に百合文化が当事者を透明化しているのだとするなら、その原因は性的客体化だけじゃない。従属的な男性性を赦してくれるような男性キャラクターがいないから、実存を預けられる受け皿として百合文化が要請されているところもあるのではないか? だから、男性学・メンズリブの方向性で百合文化に切り込めるのではないか、と思う。
たとえば女性を眼差すことが、ローラ・マルヴィの言う male gaze(男の眼差し)で、それが暴力性を孕むという指摘はそのとおりだと思う。そこは否定しない。でも、男性性はいくつかに区分できるはずなんだ。そこから議論を進めないで、「男の眼差しは全部暴力だ」って一緒くたにしたら、それこそ、もう一回苦しむ人が出ると思う。むろん女性キャラを「エロい存在」として見てる人もいる。でも「これは俺だ」って、実存の受皿のように思っている人も、たくさんいるんじゃないか。
少年漫画の世界を見渡しても、わたしみたいに「一回男性性の危機があって、いじめやからかいで削られて、それでも堅実に少しずつ生きてます」みたいな男のキャラって、ほんとにいないんだよね。ぱっと思いつくのは、のび太くらい。あとはヒロアカのデクだろうか? いずれにせよ、少年漫画の主人公はたいてい「弱さ→強さ」の成長物語に回収されちゃうから、「弱いまま留まる器」になれない。だとすると、弱った男は、自分を預ける先を、女性キャラのほうに見つけるしかない。弱い男性性は、男性キャラじゃなくて、女性キャラに亡命しているんだよ。
たとえば、わたしは『ぼっち・ざ・ろっく!』の大ファンなんだけど、主人公のぼっちちゃんみたいなキャラクターは男性にはあまり見かけない。コミュニケーションスキルの不足があんまり根本的には解決しないまま、それを個性と認められるようなキャラクターが。『ガールズバンドクライ』の井芹仁菜さんのような、思春期の不器用さをあけすけにして、それで平気で他人に突っかかっていくようなキャラクターも。もちろん、様々な漫画・アニメ作品を観ていけば、弱く不器用なまま生き延びていくような男性像を描いている作品はいくらでもあるのだと思う。でも、ぼっちちゃん・井芹仁菜さんほど象徴的なキャラクターはパッと思いつかない。


ぼっちちゃんと井芹仁菜さんだけじゃない、もこっち(『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』)、もちづきさん(『ドカ食いダイスキ! もちづきさん』)、佐藤ヤニ子(『ヤニねこ』)などのキャラクターは美少女として描かれているけれど、男性の弱さやしょうもなさを仮託された存在だと思う。男性がみずからの弱さやしょうもなさをそのまま描写することは笑えないグロテスクさを孕む。だから彼女たちのような、破天荒な美少女キャラが要請されるのだろう。
わたしはこれらのキャラクターに愛着もある。彼女たちこそがわたしたちのリアルをどこかで背負ってくれているからね。けど、でもぶっちゃけ、このままで倫理的に正しいんだろうか? という葛藤もあるんだ。男性性の弱さを美少女表象に仮託しないと語れない、そんな状況が続くのはよいのか、と。それこそ、自分自身で創作してみるしかないのかもしれないね。
個人的な話をすると、わたしがマッチョじゃない男性性を認められるようになったのは、フィクションよりむしろ音楽だった。Convergeやenvyなどのハードコアパンク系バンド、エモ/スクリーモ系バンド、ヴィジュアル系とか。ああいうマッチョじゃない男のかっこよさに触れて、ようやく自分の男性性を少しずつ肯定できるようになった気がする。
8. 終わりに——美少女を食い破る脱構築
ここまで書いてきたとおり、美少女というモチーフは透明化の装置になりうる。女性を記号にして透明化して、ついでに見てる側の男も自分を透明化する。でも、だからこそ面白いのは、その美少女的なビジュアルを一旦まるごと引き受けたうえで、内側からその透明化を食い破ろうとする作品があることなんだよね。わたしはそういう作品に、すごく可能性を感じるし、個人的にも盛り上がる。
代表的な作品は『前橋ウィッチーズ』だよ。これは既存の魔法少女・アイドルもののステレオタイプを提示したうえで、それをどんどん脱構築していくようにできている。明るそうに見えた子がヤングケアラーだったり、完璧主義者の子がじつは自分の身体にコンプレックスを抱えていたり。ジャンルのマナーに沿いつつ、それを逆手にとることでキャラクターの心の痛みに迫っていく。これはすばらしい作品だったよ。

それで思うのは、わたしが攻撃的なインセル/アンチフェミニストになったり、女性嫌悪をこじらせて暴力的になったりせずに済んだのは、こういう作品の力でもあった、ということ。プリパラのいろんなものを認めていこうっていう多様性とか優しさ。この本には出てこないけど、『カードキャプターさくら』の、いろんな愛の形を肯定する優しい世界。変な子もいるけど、それでも認め合ってる世界。ああいう、人間のいろんなあり方を認めようっていう描写を、自覚的に背負ってやってる作品こそが、美少女という器の内側から規範を食い破ってる作品なんだと思う。自分はそこに救われた。あの作品たちのおかげで、道を踏み外さずに済んだなと今でも思っているよ。
『はじめての百合スタディーズ』は、当事者の視点から緊張感を持ち込む本だった。だからこそ、読んでるこっちにも跳ね返ってくる。「じゃあ自分は、何の当事者として、百合や美少女コンテンツに何を見てたんだろう」って。緊張感に殴られながら、でも最後はちゃんと好きだと思える。そういう素敵な本だったよ。「非当事者」の当事者として、これから何ができるだろうか。