カヤマのブログ

【まえがき・もくじ】カヤマ・2022年遭遇作品100(新〜旧作 音楽/映画/書籍etc...)

ポスト・トゥルース」なる流行語が出現してからというものの、あらゆる共通前提の崩壊は止まるところを知らない。僕もそれが原因で他者の癪に障る失言を零したことは幾度もあるし、反対に、僕が関心を寄せている文脈がまるごと認知されていないことを悔しく思ったりする(説明好きなので、そのたびに嬉々として知識を開陳するのだが)。それは消費者レベルのみではなく、第一線の批評家たちでもそれが発生しているもよう。言ってみれば当然だが、「ポスト・トゥルース」とは、どの世界も「一枚岩」は有り得ないということだ。

たとえば『批評の教室』著者:北村紗衣氏はニュー・アカデミズム~ゼロ年代批評や本邦のシネフィル文化から断絶しており(Twitter内で関連著作をチェックしてはいるが特別入れ込んではいないと吐露している)、ロラン・バルトヴァージニア・ウルフ等に依拠して批評活動を行っている。「私がふだん自分の批評研究でよく使っていて、また学生にも読み方として教えているのは一九七〇年代頃から盛んに行われるようになったポストコロニアル批評やフェミニスト批評、また八〇年代くらいから行われるようになったクィア批評などです。(『批評の教室』より)」イギリス・フランス産批評理論の再輸入。それを軽妙なタッチで操縦する親しみやすい書きぶり。まるで、両親と絶交関係のおじいちゃん・おばあちゃん子。文脈の断絶が嘆かわしいことかといえば否であり、むしろ、独力で批評の型を編み直したことにより映画批評の読者層を新規開拓しつつある。一読者としても応援したい文筆家だ。

あなたにとってあたりまえのことは、何度だろうと喧伝する意義がある。案外それが他者にとって未知の情報であることも少なくないからだ。だから、今回僕もそうする。

今年の僕は、とにかく他人との対話に影響を受けた。Twitterスペース・Discord・旧友・家族・サブカルお兄様(4X歳・現実世界で今年やたら仲良くなった)。そして、その最中のすれ違いから危機感を覚え、「あたりまえ」とされているらしい映画・書籍(のほんのごく一部)を急ぎ斜め読みするのに一年間を費やした。音楽のみは能動的にチェックしたものが大半だが、それ以外は他者の「あたりまえ」が伝染した結果だ。

すべての領域が島宇宙でしかない今、「あたりまえ」などという言葉ほど疑わしいものはない。ニコニコ動画初シンガーソングライターまふまふが東京ドーム公演を行った際、彼の名を認知していたのは日本国民の何%だろう。米津玄師が「ハチ」なる名義で活動していたと知る者は一体何人いる?一方で僕とて、現サッカー日本代表の選手名を一名たりとも存じないし(本田圭佑ってまだいるの?)、『もののけ姫』を観たことがないし、いまだに本邦47都道府県のうち北海道・青森・福岡・鹿児島・沖縄くらいしか位置を正確に把握していない。それらの情報を習得した瞬間に他者との合意形成が突然可能になるとも思わない。しかし、かつて友人が言わんとしていたことがふっと唐突に理解できるようになるのは、単純にうれしい。

今回は音楽のみならず、映画・アニメ・書籍などを幅広く扱うのも、読者たる皆々様にひとつでも共通点があること、そしてひとつでも未知との遭遇が発生するのを願ってのことだ。下品な悪食ぶりが前景化した記事になってしまったが、下品な悪食をもって作品間の境界を無化するのは「消費者」、ひいては「大衆」の特権ということで、ありがたくそれに甘えさせていただくとしよう。

知らない町のブックオフに来た気分で、ゆっくりしていってもらえたら幸いだ。